柴又駅へのアクセス
渥美清さん主演の映画『男はつらいよ』シリーズで有名な東京都葛飾区にある柴又駅に行ってきました。寅さん好きとしては柴又は過去に何回か行った事がありましたが、今回は駅前が再開発されるとの事で、工事中と完成後の駅に行ってきました。ちなみに2018年に天国へ行ってしまった愛犬寅次郎の名前は「寅さん」から貰いました。
柴又駅は京成金町線にあります。電車でのアクセス方法は京成線か都営浅草線経由で行けます。京成上野駅や日暮里駅から京成本線で京成高砂駅まで行き、京成金町線に乗り換え、「京成金町」行きで「柴又」下車、所要時間は30分前後です。日本橋、浅草方面からですと、都営浅草線で京成高砂駅まで行き、京成金町線に乗り換えます。所要時間は30分前後です。また、帝釈天までは路線バスも出ています。金町駅から京成バス「JR小岩駅」行きで、「柴又帝釈天」下車、所要時間は約4分。小岩駅からだと京成バス「金町駅」行きで、「柴又帝釈天」下車、所要時間は約14分です。
「男はつらいよ」とは
『男はつらいよ』とは松竹が製作した日本映画であり、50作まで続くシリーズ物であり、日本映画を代表する作品のひとつです。監督脚本は山田洋次(他の監督、複数で脚本を書いた作品もあり)。『男はつらいよ』は、もともとは1968年10月3日から1969年3月27日まで放送されたテレビドラマでした。ドラマが好評だった事と、最終回での寅さんの結末に視聴者から抗議の電話が殺到したらしく、その声に応える為、映画が誕生したそうです。
映画の第1作は1969年8月27日に公開。その後、映画は年に2回のペースで公開されるほどの人気作品となり、1995年12月27日に公開された48作まで続きました。1996年、主演の渥美さんが亡くなった事により、渥美さんが出演した作品は第48作が最後となりました。しかし根強い寅さんファンのリクエストに応える為、1997年には特別編『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が製作され、2019年には50作目である『男はつらいよ』の完結編が公開されまし
〜『男はつらいよ』のあらすじを簡単にご紹介〜
主人公は渥美清さん演じる「フーテンの寅」こと車寅次郎、通称「寅さん」。15歳の時に父親と大喧嘩をし、家を飛び出した寅さんが20年ぶりに突然、故郷の柴又に帰ってくるところから物語は始まる。
舞台は東京都葛飾区の柴又。帝釈天に続く参道にある、草団子屋『とらや(その後「くるまや」に変更)』が寅さんの実家だ。そこにはおいちゃんとおばちゃん(叔父夫婦)と妹のさくらが暮らしている。
寅さんは父親が芸者との不倫で出来てしまった子供だったので、さくらとは異母兄妹。生まれてすぐに、実の母親に捨てられ、車家に引き取られた寅さん。さくらとは腹違いだが、寅さんにとってさくらはたった一人の大事な妹なのだ。
寅さんの職業は日本全国を渡り歩くテキ屋。その為、物語の舞台も北は北海道、南は沖縄と、毎回の変わり、その先々で出会うマドンナとのやり取りも映画の見所。寅さんは毎回そのマドンナ達と恋に落ちるのだが、大抵は寅さんの片想いが多く、失恋するのがお馴染みのパターン。
登場するマドンナ達は何かに思い悩んでいる事が多く、その都度寅さんが親身になり、マドンナの為に一肌脱ぐ。何やかんやあって、その後舞台は柴又へ。故郷に帰ってきた寅さんの元へ偶然マドンナが現れたり、マドンナから寅さんの元へ来る事もあったりと、車家も自然と寅さんとマドンナの恋の行く末を見守る展開に…。
しかしマドンナにとって寅さんは「やさしく親切ないい人」で終わる事が多く、寅さんは毎回失恋してしまう。時にはマドンナといい感じになる事もあるが、マドンナの幸せを思い、寅さんが身を引いてしまうパターンもある。
マドンナの悩みが解決すると共に、寅さんは再び旅に出てしまう。柴又に帰って来れば、おいちゃん(叔父)達と喧嘩してひと騒動あるが、物語の終わりに寅さんが旅に出る頃には、さくらを初め、みんなが別れを惜しむ。
寅さんはいる時は騒々しく厄介だが、いなくなると寂しい、そんな存在なのだ。しかしさくらはいつも寅さんの帰りを待っている。そして、寅次郎もたった一人の妹の為に偉い兄貴なろうと日々奮闘努力しているのだった。
2019年に完結編である50作目が公開された記念と、柴又駅プラットホームの補強工事も兼ねて、現在(2020年12月〜)駅のホームが「寅さん装飾」になっています。
駅名看板、駅名標、柱など至る所に寅さんがいます。
路線図かと思いきやよく見ると、映画の歴史を綴った路線図風の寅さんです。
名シーンや撮影風景の写真でラッピングされた柱には古いレールらしき物が付け加えられています。このレールが補強の役割を担っているのでしょうか?
寅さんデザインは当面の間という事ですが…。ファンとしては「寅さん装飾」のホームは嬉しいので、このままでもいいのでは?と思います。
柴又について
「柴又」という地名の由来を調べてみると、古くは「嶋俣(しままた)」という地名だったとの事です。その後「しばまた(芝俣、柴俣)」に変化し、江戸時代以降に現在の「柴又」という地名が定着したそうです。また「嶋俣」という地名は、地形を意味し、「嶋」とは河川から運ばれてきた土砂が堆積して形成された地形の事で、「俣」とは河川の合流地点を差します。遠い昔、この辺りは全て海でした。長い年月をかけて地形が変化し、川が分かれて土砂が蓄積し、島になりました。地形そのものが地名や苗字になる事は多いですね。
柴又駅前広場には『柴又の成り立ち』を紹介する案内板がありました。
柴又は葛飾区の東部、江戸川右岸の微高地(海抜約2〜3mの土地)に位置しています。
6世紀以降、標高の高い場所に集落が形成され、現在の柴又八幡神社本殿裏にあたる場所に古墳が造られたと考えられています。
古代から近世初頭にかけて柴又八幡神社の前を通る古い街道である国分道(こくぶみち)は、帝釈道(たいしゃくみち)とともに太日川(ふといがわ 現在の江戸川)対岸の下総国の渡河地点に繋がり、柴又の南北を走る旧東海道・水戸街道を柴又で繋げる役割を果たしたため、柴又は水陸交通の要衝の地として機能し、多くの人や物資が行き交いました。
1629年に帝釈天題経寺(たいしゃくてんだいきょうじ)が開かれ、1779年に帝釈天板本尊(たいしゃくてんいたほんぞん)が発見されると参詣が急増します。また1835年に柴又用水が開削されると農作物の量が増え、江戸の食糧供給地として成長を遂げていきました。
明治中期以降、帝釈天の参道沿いには近隣農家が副業として煎餅屋や料亭を営み始めます。明治の帝釈人車鉄道の開業、大正の京成電気軌道による鉄道網の整備により多くの人が行き来するようになり、東京近郊の行楽地として今日見られる門前の景観が形成されました。
近代、特に関東大震災(1923年)以降の急激な人口増加を背景に、大正時代には金町(かなまち)浄水場の開設、昭和初期には区画整理などが行われました。戦後さらなる都市化を経て今にに至っています。(駅前案内板より)
古墳時代から柴又は存在しているのですね。
また、柴又エリアは『国の重要文化的景観』にも選ばれています。案内板には『重要文化的景観の選定について』の説明もあります。
文化的景観とは、地域の風土を活かして人々が暮らしの中で作り上げてきた景観のことです。この風土、暮らしに着目すると、葛飾柴又の文化的景観は「中心部」「周辺部」「縁辺部」の3つのエリアとして捉えることができます。江戸川近くで古代から続く人々の生活や往来を基底としながら、近世に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前が「中心部」にあり、その基盤となったかつての農村の様子を伝える「周辺部」がその周囲を包み、さらにその外側を19世紀以降、都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備が行われた「縁辺部」が取り囲んでいます。各エリアにはそれぞれの特徴を示す帝釈天題経寺や参道店舗、柴又八幡神社をはじめとした社寺、旧家や農地、金町浄水場などが現存するとともに、柴又用水のように機能は失われていても、その痕跡を確認できるものも多くあります。
こうした葛飾柴又の文化的景観が評価されるとともに、葛飾区として保存計画を策定し、文化的景観を保持するための取り組みを行なっていることが認められ、2018年2月13日に文化的景観のうち特に重要なものであるとされる国の重要文化的景観に選定されました。(駅前案内板より)
柴又エリアは都内で唯一『国の重要文化的景観』に選ばれた町であり、『風景の国宝』とも呼ばれ、葛飾区全体で景観の保存に力を入れています。
柴又八幡神社
柴又駅から参道へ向かい、参道手前を左に曲がった線路沿いに柴又地域の鎮守である「柴又八幡神社」という神社があります。
この神社の社殿裏手からは6世紀末から7世紀初めに築かれたという前方後円墳が発見されました。境内全体が古墳の上に鎮座しており、現在は社殿下に古墳石室が復元保存されているそうです。
古墳の周りからは鉄刀、馬具、埴輪などが出土し、その中には寅さんそっくりの帽子をかぶった埴輪もあったそうです。その「寅さん埴輪」が見つかった2002年8月4日は、寅さん演じる渥美清さんの命日(渥美さんの命日は1996年8月4日)だったという事で、この偶然は驚きです。さらに奈良東大寺正倉院に保存された戸籍帳によると、奈良時代の柴又には「トラ(孔王部刀良/あなほべのとら)」という男性と「サクラ(孔王部佐久良売/あなほべ さくらめ)」という女性が存在していたそうで、この奇跡的な偶然には山田洋次監督も驚いていました。
ちなみに寅さん埴輪が見つかった2002年は愛犬寅次郎の誕生した年でもあり、これも個人的には驚きの偶然です。
再開発された柴又駅
(以前の駅前広場)
いつ来ても『男はつらいよ』の映画の世界そのままだった柴又駅が再開発されてしまいました。工事期間は2019年7月から2021年6月。再開発の理由は、駅前に並ぶ店舗の老朽化の為、という事で京成電鉄が工事を決定しました。
駅前に立ち並ぶ風情のある店舗は全て撤去され、駅舎を取り囲むように商業施設が建設されていきます。
駅前のフォトスポットであるフーテンの寅さん像とさくらの像もフェンスに取り囲まれてしまいました。
当初、新たな商業施設は全て2階建の予定だったそうですが、駅前再開発工事に反対する声や景観を維持して欲しいと言った意見により、一部のみ2階建に変更されたそうです。
また現場を訪れた山田洋次監督も不安の声をあげていました。
2021年6月。再開発工事が完結した柴又駅に行ってきました。昭和の香り漂うレトロで風情のあった駅前が、オシャレでスタイリッシュな駅前に変貌しています。今までの柴又駅とはだいぶ雰囲気が変わり、開放感もなくなりました。
商業施設の外壁やコンビニの看板など、景観への配慮は感じられますが…。
駅舎は商業施設に挟まれてしまいましたが、ホームに入る電車の姿は見えました。
向かって左側の建物に駅名看板が隠れてしまうところだったそうですが、山田監督の指摘で駅名看板を右に1.5mほど移動させる事で、隠れずに済んだそうです。微かにずらした跡が残っています。
商業施設にはコーヒーショップやコンビニの他、以前駅前広場にあった店舗もテナントとして復活していました。
寅さん像とさくら像もそのままで安心しました。
「フーテンの寅さん像」は1999年に地元商店会と観光客の募金により建てられました。寅さん像の台座には山田監督による寅さんの故郷への想いが綴られています。
寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで
金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのに
なぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと
哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
いったい何十辺くり返したことだろう
でも 故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
ーごめんよさくら
いつかはきっと偉い兄貴になるからなー
車寅次郎はそう心に念じつつ
故郷柴又の町をふり返るのである
1999年8月 山田洋次
旅に出る寅さんを「見送るさくら像」は、2017年に建てられました。さくらの台座には山田監督作の『ある別れ』というミニドラマが綴られています。
ーある別れ
さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで
見送ることにする
「いいんだよ、忙しんだろ、お前」と
言いながらもその思いやりが
みにしみるほど寅は傷ついていた
駅前でさくらは立ち止まる
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」と無造作にうなずいて駅舎に
向かう寅の足がふと止まりふり返る
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと
改札口にむかう寅
さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる
冷たい風が吹く中を家路につく
2017年 3月 山田洋次
さくら像の右サンダルには、さくら役の倍賞千恵子さんが書いた「さくら」の文字が、左サンダルには千恵子さんの「ち」という文字が刻まれています。「さくら」の「さ」と「ち」で「幸」という意味が込められているそうです。
火消しの纏(まとい)のモニュメントはどこに行ってしまったのでしょうか?駅前広場から姿を消していました。
おつり地蔵尊はそのままありました。
帝釈天参道
駅前から帝釈天まで続く約300mの参道には、団子屋や川魚料理屋、土産物店などが並びます。この参道も映画ではお馴染みの景色です。
参道入り口にある渥美清さん寄贈の常夜燈。
その横には山田監督筆の映画の碑。
参道を横切る柴又街道。
ちょうどこのエリアの道路の幅を現在の11mから15mに拡幅する工事が予定されているそうです。拡幅工事の理由は、大型車でも安全性にすれ違えるようにとか、安全性や防災上の為に、といった事らしいのですが、拡幅工事に伴い、沿道の建物の建て替えもあるかもしれないそうです。
参道は『国の重要文化的景観』の一部として、歴史と共に街並みが維持されてきましたが、工事によってその景色が失われるかもしれません。
柴又街道を渡ってすぐの場所にあるお団子屋「髙木屋老舗(たかぎやろうほ)」さん。
こちらは寅さんの実家「とらや(くるまや)」のモデルになった団子屋として有名です。映画の撮影時には休憩や衣装替えの部屋としても使われました。髙木屋老舗さんは参道を挟んで2軒あり、どちらも木造瓦ぶきの建物で、明治と大正に建てられました。一方がお土産の販売店、もう一方が喫茶店です。喫茶店の店内には、『男はつらいよ』の撮影時の貴重な写真や寅さんゆかりの品々が展示されています。
名物の草団子は、お米はコシヒカリをもち草は筑波山麓のよもぎを、あんは北海道産の一級の小豆が使われています。
1作から4作まで実際に映画の撮影に使用された草団子屋「とらや」さん。創業は明治20年ですが、現在の建物は平成元年に建て替えられたそうです。
元は「柴又屋」という屋号でしたが、『男はつらいよ』にちなんで屋号を「とらや」に変えた、という情報をネットで見つけました。そんな関係で映画の方は「とらや」を「くるまや」に変更したのだとか…。
とらやさんでも店内で草団子や食事が出来ます。また、撮影に使われた階段が今も残っていたり、映画の初版ポスターなども飾られており、食事を楽しみながら寅さんワールドにたっぷり浸れます。
渥美清さん、山田監督が通ったという天丼屋「大和」さん。天丼の他、天ぷら、おでん、草団子も頂けます。
創業200年以上の川魚料理屋「川千家(かわちや)」さん。こちらは『男はつらいよ』第23作目『翔んでる寅次郎』でロケ地として登場しました。
帝釈天に1番近い団子屋、明治34年創業の「亀家本舗」さん。こちらも寅さんの団子屋のモデルになりました。現在はビルになっていますが、建て替えられる前のお店がモデルになったそうです。
帝釈天手前を左に曲がった場所にある鰻屋「柴又 宮川」さん。以前はこちらにロークという喫茶店がありました。その喫茶店は『男はつらいよ』の第8作目『寅次郎恋歌』でマドンナ池内淳子さんが経営する喫茶店として登場しました。
参道には多くの草団子屋があります。なぜ柴又には草団子屋が多いのでしょうか?米作りが盛んだった柴又、そして昔は江戸川の水も綺麗でその土手でよもぎを収穫しました。米を団子にし、よもぎを混ぜて作られた草団子は、帝釈天の参拝客に親しまれるようになり、柴又の名物として定着しました。
帝釈天
帝釈天の正式名は「経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)」といいます。創建は1629年(寛永6年)。
長らく行方不明だった御本尊である「帝釈天の板本尊」が1779年(安永8年)の庚申(こうしん/かのえさる)の日に発見された事から、柴又では庚申の日に縁日が行われるようになりました。
『男はつらいよ』では寅さんが幼い頃からお世話になっている住職、「御前様」のいるお寺として何度も登場しました。第1作目のマドンナは御前様の娘さんでした。
寅さんの弟分であり、寺男の源ちゃんがついた鐘は、昭和30年に総欅(けやき)で作られた高さ15mの大鐘楼で「関東一の鐘楼」といわれており、存在感と貫禄が漂います。また鐘の音色は「昭和の銘鐘」と絶賛されたそうですが、現在は自動式との事。現代的なのかもしれませんが、お寺の鐘が自動式とはちょっと味気ない感じですね。
『男はつらいよ』のオープニングのセリフにある「帝釈天で産湯につかい…」の寅さんがつかった産湯とはこの御神水の事らしいです。
境内を囲む玉垣には、渥美清さん、倍賞千恵子さんの名前があります。
王貞治さんの名前も。
寅さん記念館
帝釈天から徒歩5分くらいの場所にある「寅さん記念館」は江戸川沿いにあります。山田洋次ミュージアムも併設されており、同じ料金で見学が出来ます。
記念館には、第1作から第48作まで実際に使用された「くるまや」のセットが移設されています。映画で実際に使われた本物のセットを間近で見学出来るとは貴重です。
この「くるまや」のセットは大船撮影所が閉鎖してしまった事により、寅さん記念館で永久保存されるそうです。
「くるまや」の裏にあるタコ社長が経営する朝日印刷所も再現されています。展示してある活版印刷機は東陽町の印刷所で42年間使われていた本物の印刷機です。
昭和30年頃の帝釈天参道をミニチュアで再現されたコーナー。
昔懐かしい木像の駅舎。
人力で動かしていたという帝釈人車鉄道(たいしゃくじんしゃてつどう)の車両模型。
寅さんが愛した鈍行列車の旅。車窓には映画の名シーンが映像で流れます。
映画で使用された小道具なども。
寅さん記念館情報
◉開館時間…午前9時~午後5時(なるべく閉館30分前までにお入りください)
◉休館日…第3火曜日(ただし第3火曜日が祝日・休日の場合は、直後の平日)及び12月第3火・水・木曜 ※年末年始も営業
◉入館料(山田洋次ミュージアムとの共通券) …
一般500円 、児童・生徒300円 シルバー400円
★寅さん記念館&山本亭セット料金…一般:600円→550円
シルバー:500円→450円
詳しくは公式サイトをご確認下さい。
寅さん記念館の隣には「TORAsan Cafe」もあります。記念館でたっぷり寅さんワールドを満喫した後は、寅さんカプチーノ「TORAチーノ」で一休みもいいですね。
*営業日、営業時間は寅さん記念館と同じです。
寅さん記念館の奥にある「山本亭」では和洋折衷の大正建築と海外でも評価の高い日本庭園が見学出来ます。
山本亭は、カメラの部品メーカー創立者 山本栄之助氏の住居でしたが、現在は貴重な文化遺産として葛飾区の登録有形文化財に指定され、保存、一般公開されています。
山本亭情報
◉開館時間…午前9時~午後5時
◉休館日…第3火曜日(ただし第3火曜日が祝日・休日の場合は、直後の平日)及び12月第3火・水・木曜 ※年末年始も営業
◉入館料 …100円
※中学生以下及び障害者手帳等をお持ちの方と介護者(同行者)1名は無料で
★寅さん記念館&山本亭セット料金…一般:600円→550円
シルバー:500円→450円
詳しくは公式サイトをご確認下さい。
同じく江戸川沿いに建つ「川甚(かわじん)」さんは創業231年の老舗川魚料理屋です。
『男はつらいよ』の記念すべき第1作に、さくらと博の結婚披露宴会場の場として登場しました。
残念ながら川甚さんは2021年1月に閉店してしまいました。川甚さんは、『男はつらいよ』だけでなく、夏目漱石、谷崎潤一郎、松本清張など数々の文学作品にも登場しました。また三島由紀夫や手塚治虫、黒澤明も訪れたそうです。
閉店後の建物と土地は葛飾区が取得し、管理していくそうです。最新情報によると、1965年に建てられた本館は解体が決まったとの事。新館の方は、川甚さんが所蔵していた品々を展示する資料館としてリニューアルされるそうです。もう川魚料理屋としては復活しないのですね、残念です。
江戸川
江戸川に出ると、寅さんも度々乗船していた「矢切の渡し」があります。
江戸時代初期から続く「矢切りの渡し」は小説『野菊の墓』や細川たかしさんの歌『矢切りの渡し』でも有名です。
葛飾区柴又と千葉県松戸市矢切(やきり)を結ぶ「矢切りの渡し」は都内で唯一現存する渡し船です。
江戸時代、防衛の為に設けられていた関所(人の移動、物流を検査する場所)という場所が各地にありました。幕府のある江戸への出入りは特に厳しかったそうです。しかし江戸川両岸に田畑を持っていた農民は、耕作の為に関所は通らずとも、自由に渡し船を使って川を行き来出来ました。これが「矢切りの渡し」の始まりであり、もともとは農民渡船といわれるものだったそうです。
現在でも手漕ぎで(モーターの場合もあり)、船を漕ぐ櫓(ろ)の音は「日本の音風景100選」に選ばれています。
矢切りの渡し情報
◉運行日…*夏季:毎日
*冬季:土・日・祝日のみ(帝釈天縁日は運航)
※天候や水位の状況により運休の場合があります。電話での問い合わせのうえ、お出掛け下さい。
◉運行時間…10時00分~16時00分
◉料金…中学生以上片道200円、小人片道(4歳~小学生)100円
土手を歩く寅さんのシーンに度々登場した取水塔は現役活躍中です。江戸川の水を金町浄水場へ取り入れています。江戸川区、葛飾区、足立区、江東区、荒川区、台東区などの地域への水は、金町浄水場と三郷浄水場から配水されています。
有名なとんがり帽子の第2取水塔は、レンガ造りで昭和16年に建てられました。
第1取水塔が解体された後に、第3取水塔が昭和39年に建てられました。
まとめ
(寅さん記念館でのお土産)
『男はつらいよ』の第1作が公開されたのは今から約50年前です。たった50年という年月しか経っていないのに、映画の世界と今の世界はまるで違います。同じ国、同じ日本人であっても、昔と今では価値観すら一変してしまいました。文明が発達したおかげで、時の移り変わる速度も早くなったのでしょうか?しかし柴又には今も懐かしい景色、音、そして現代人が忘れかけてしまった人情が残ります。様々な苦難を乗り越えて守られてきた人々との信頼関係や文化、歴史に出会えます。
そこに暮らす人々や働く人にとっては便利や安全、安心が第一だと思います。でも寅さんファンとしては、柴又の町はいつまでも寅さんが帰りたいと思う、心温まる懐かしい故郷であって欲しいと願ってしまいます。
*柴又観光におすすめサイト↓↓↓
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